一寸先も見えない本当の暗闇。繰り返す自分の呼吸音を数える。短く早い。
耳を澄ませば聞こえてくるのは確かに音なのか、それとも豊かな想像力が生み出した幻聴の類なのか。軽く首を捻るその筋肉の動く音さえ耳にうるさい。ゴクリと飲み込んだ唾液。咽の動く音と、隆起する感触。
むせ返るような濃厚な匂いがするが、それが何の匂いなのか思い出せない。いや、自分の汗の匂いは分かる。それ以外に何か。意識して息を吸い込もうとするが、トクトクと浅く早く繰り返される鼓動と共に、精一杯吸い込んだ息は、常よりもずっと少ないはずだ。
視界の先は真っ黒で、肺に吸い込んだ重い空気がグルグルと暴れるように回る。気持ちが悪い。汚いものを吐き出すように思いっきり鼻から空気を吐き出すが、すぐさまその反動で肺は膨れる。
見えないが自分の顔は汗に塗れているのだろう。乾いた唇を軽く舐めるとしょっぱい味がした。
むしょうに、白い雲が流れる真っ青な空が見たいと思った。


夜が怖いのは、見えないからだ。
黒しかない世界はかなしい。
だから人は沢山の灯りで夜に色をつけた。たくさんの色でいっぱいにした。
けれど、


「真っ暗闇の中で思い出す青い空ほど、美しいものはないよ」

「ああ、そうかよ、と」


パンッ、と高く響く割には軽い音が、夜の闇を切り裂いた。





夜の空




月明かりさえない夜の闇。人工の灯りもなく、ここには自分ひとり。けれど、伸ばした手に視線を落とせば薄っすらとだが輪郭を辿ることが出来る。
「真の闇ってほどじゃないんだぞ、と」
呼吸は落ち着いている。自分が夜目が利く方だと思う。
別に夜は怖くない。むしろ心地いい方だと思う。
今はただの暗闇でしかないが、崖を背にしたここには草原が広がっている。高く続く虫の音や、微かな風に揺れる草が立てる音が、耳にうるさいくらいだ。
通り抜ける夜の生温い風が気持ちいい。適当にボタンを留めたシャツを通り抜けていく。
「さぁて、指定の場所は、この辺のはずなんだぞ、と」
携帯を開けば、正確な位置が確認出来るはずだが、あえてそうするでもなく、記憶に残る位置を頭の中でトレースしながら、真っ暗な草原の真ん中に一人立ってみる。
見上げても星ひとつ見えず。


「明日は雨かな、と」


青い空とは縁がない。





ナニイロ?




目立たないようにヘリは、灯り一つなく夜の空を飛ぶ。
パイロットは赤外線スコープを装備しているが、後部の床に座って(客席なんてものはない)適当に背を預けているレノには、ただ真っ暗な視界が広がるだけ。
プロペラの音だけあたり一面に響かせて、この明かり一つない夜空を見上げた人はなんと思うのだろう。何も見えないのに音だけがうるさい。轟音だ。
怪奇現象扱いされたら楽しいのに。

「………腕を、どうした?」
相棒は暗闇の中でも黒いサングラスをかけている。絶対何も見えないだろうと思うのにどうして、全て見えているかのように語りかけてくる。そのサングラスは実は赤外線スコープが搭載されているのだろうか。そうに違いない。
「腕がどうしたって?相棒」
「………濡れている」
黒スーツの右腕はぐっしょりと湿っていた。本当に何で見えるのだろう。
液体を吸い上げたスーツはさらに黒く色を濃くしているが、明かりの中で見たらほんの少し藍色がかったように見えるだろうか。それとも濃い茶色か。
でも、ホントの色は、


「あぁ、なんでもない。ただの返り血だぞ、と」


アカイロでした。





どうぞ、ご自由に




『気が狂いそうになるよ…… 』
男はそう言った。
こんな仕事ばかりしていたら、いつか正気を失ってしまう。それが怖くて余計頭がおかしくなりそうだ。
『あんたらはおかしいよ。もう狂ってる。だから平気なんだ。でも俺は……』
気が狂いそうになるよ。
正気だからこそ、気が狂いそうになるよ。

青い制服を脱ぎ捨てて遠く遠くへ逃げてきた。ただ背を向けて、襲い掛かる夜の闇から逃れるように走る走る。
けれど、夜から逃げることなんて誰にも出来ないんだ。
辺りは真っ暗で、何も見えない。
呼吸は乱れ幻聴なのか、追ってくる足音がすぐ後ろ、首に触れるくらい近くに感じるのに、あぁ、何も見えない。

「気が狂いそうになるよ……」

「ご自由に、どうぞ、と」

追ってきた夜はそう言って、銃を構えた。




任務終了




「ご苦労だったな」
報告に対して帰ってきた一言。
挨拶して今日はおしまい。
ビルは眩しいくらいにピカピカの灯りまみれで、外に出れば街にはうっすらと魔晄の光が漂っている。
ここに夜の闇はない。
あ、そういや着替えてくるの忘れたな。
黒いスーツは乾燥した濃い染みが残っているけれど、何色かなんて傍から見ても分からない。
ま、いいか。
そのまま気にせず街を歩く。
あの男のことも、忘れるわけじゃないが、誰も思い出そうともしないだろう。


それでいい。


真っ暗闇の中で、自分は自然に呼吸が出来る。
青い空なんて思い出さないし、夜の暗闇は美しい。




-END-
 
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